Interview

音楽監督 永峰大輔
インタビュー   (3/3)

丹治:
 そういえばさっきのエネルギーの話で思い出したのですが、私が子供のころ、初めて寝ずに最後まで聴いた演奏が、ヤナーチェク弦楽四重奏団の演奏だったんですよね。いったいどんな子供なんだって話ですけど(笑) 彼らの演奏は、CDだと面白くないんですが、あの4人でやっているあの熱量が面白いと思ったのを覚えています。

常盤:
 ひょっとすると、その熱量の伝わりというのが、奏者とお客さんのコミュニケーションということなんでしょうね。

永峰氏:
 ここでひとつ言っておかないといけないと思うんだけど、丹治さんがそれを聴いて面白いと思ったのは、それまでにいろいろなコンサートに連れて行ってもらってて、クラシックのコンサートにある程度馴染んでいたからだったかもしれない、ということ。クラシック音楽を聴くためには、経験が必要だと思う。知識じゃなくてね。今の日本の音楽教育は、経験値を増やすトレーニングとして位置付けられると思う。音楽は世界共通言語で、何にも知らない人にも感動を分かち合える、とまでは、僕はそこまでは言えないし、思わない。やっぱり少しはそれまで音楽に触れていないと、ある音楽を楽しむというのは難しいと思う。けれども、プリモがやらないといけないことは、経験値を増やすことじゃないんだ。なんていうんだろう、ぱっと聴いてオッ!と思えるような演奏。つまり、さっきいったような「面白い演奏」だよね。それがプリモのようなオーケストラの使命だと思っている。

常盤:
 とても難しい議論だと思います。みんな、コンサートに足を運ばない人々の関心を引こうと努める中で、何か解を見つけようと模索してますよね。いわば、次の時代の楽しみ方、みたいなものを。

永峰氏:
 だけど最近思うのは、音楽ってそんなに確固たるものじゃないんじゃないかってことだよね。暗い曲で楽しい気持ちになる人もいるし、極端な話、砲弾が飛び交っている中でも、音楽を聴くことが救いになる人もいれば、もちろんそれどころじゃない人たちだっている。つまり、「こうリズムで、こういうオーケストレーションをつけるとこうなるだろう」みたいなことって、音楽そのものが表現しようとしていることであって、必ずしもお客さんがそう受け取るとは限らない。聴き手はそれを、受け入れられるときもあれば、受け入れられないときもある。だから、「こういう風に感じてほしい」「こういう風に聴いてほしい」っていうスタンスは危険だと思う。僕たちがやらないといけないのは、音楽をパッケージングして、その食べ方を教えてあげることじゃなくて、そのものがとってもおいしいものになるように努力することしかできない。だから余計なことを考えずに正しい音楽を成り立たせるように努力するしかないんだ。

常盤:
 永峰さんはそういった「正しい音楽」「音楽そのもの」を伝えるために、いつもすごく勉強していらっしゃいます。そして練習では、指示には必ず理由を教えてくれます。それは歴史的背景だったり、音楽理論だったりします。そんな永峰さんのスタンスは、どこかアカデミックさを感じることがあります。そんな永峰さんのスタンスを形作っているものは、いったい何なのでしょうか。何がベースになっているのでしょうか。

永峰氏:
 これは初めて訊かれたな(笑) すごく深く掘り下げていくなら、父親の影響だと思う。うちの父親はエンジニアで、飛行機の整備をやっていたんだけれども、技術屋だからすごく理屈っぽいんだよね。整備士の免許には何年かに一回試験があるんだ。それに整備士は飛行機そのものも運転できないといけないから、新しい機体が出るたびにその機体の操縦の仕方を覚える。その勉強の仕方がすごくて、分厚い英語のマニュアルなんかを机の上に並べて、前にコクピットの図面を貼って、片っ端から暗記していく。ものすごい集中力で。それを見ていた僕にとって、勉強とはそういうものに外ならなかった。だから、音楽に取り組むときもそういう取り組みをする。ただ単に「あぁいい音楽」みたいになるんじゃなくて、めちゃくちゃやんないとだめなんじゃないかっていうある種の強迫観念みたいなものがあるんだ。
 
 もうひとつ、大学時代は法学部だったんだけど、法律を解釈することと音楽を解釈することって、僕にとって一緒なんだよね。だから、対象について、「それをどういう風に解釈することが許されるか」ってのが僕にとっての音楽。僕がこう感じたから、だけでは音楽はできない。それが、アカデミックに感じられる理由なのかもしれないね。やっぱり、楽譜の中にあること、過去の演奏習慣、作曲家のバックグラウンド、法学部っぽくいうと証拠、それがないと音楽ができない、という考え方が僕の中にある。理由がないのに音楽をいじらない。何となく動かしたほうがいいと感じても、理由がないとき、説明できないときはやらない。もっとも、昔はもっと理屈っぽかったんだけど、最近はいい具合に自分の感覚的なことと混じってきた感じ。それはやっぱり経験のおかげだと思う。僕はプロの指揮者として、プロの音楽家と関わるようになってからまだ5年しかたっていないけど、最近になって、やっと自分がどんな指揮者なのかわかってきた気がする。こうやってインタビューを受けていているとそれがよくわかるね。

常盤:
 永峰さんにとってプロであるとはどういうことでしょうか。

永峰氏:
 何だよ(笑)なんかスガシカオが流れてくるね(笑) すごく語弊があるかもしれないけど、指揮者をやってることは僕にとって楽しくはないんだよ。むしろホルンを吹いてる方が楽しい。だけど、なんでやってるかというと、それは、義務感だよね。僕にとってプロであるということは、義務を果たすということなんだ。つまり、音楽っていう大きなものがあって、音楽を正しい形で演奏するっていう義務があると思っている。その義務を果たすために演奏しているし、指揮を振ってる。そういう感覚がある。でも、なんかそう、日本語の義務感って、やらされてるみたいなイメージだけど、僕にとってはもっと能動的なイメージなんだよね。

常盤:
 誤解を恐れずにいえば、キリスト教的な義務感でしょうか。

永峰氏:
 そうかも、宗教っぽいかも。なんかその、“大いなるもの”に対してのっていう。ただそれは、これからもうちょっとちゃんとこの仕事をやっていければ変わっていくと思う。それはいつかは、もっと自分の中の欲求から突き動かされるときが来ると思うんだけど、まだ僕はひよっこだから、まだそこまで至っていない。僕が感じているからこうなんだ、っていうにはまだ力が足りない。だから正しいと思うことを、証拠を集めながらやっていくしか、まだなくて、その“大いなるもの”に対する義務感であったりとか、そういうものに突き動かされている感じがするかな。

常盤:
 なるほど。普段聞けないことをお聞きする中で、永峰さんのお人となりが見えて、また今後のプリモが楽しみになってきました。本日はどうもありがとうございました。

永峰氏:
 こちらこそありがとう。これからもよろしくね。